Leaf 8
針のような北風が、微動だにしない秋田犬の頬を刺す。その静けさの隣には声があり、歌があり、音がある。真っ白に覆われた冬空の下、渋谷の街は覚めない夢のように心地よい騒がしさに包まれていた。
地下道から地上に出ると、早瀬さんは人混みから少し外れたところで、妹とともに立っていた。桜新町駅からしばらく歩いたところにある彼女たちの家まで付き添ったあの日から、僕は二人の早瀬さんを下の名前で呼ぶことにした。姉がさとみ、妹がさおりである。小柄なさとみに比べて、さおりはすらっと背が高く、大人びている。3歳の差があるというが、むしろさおりの方が年上に見えるほどだった。
二人が着ている服は、一週間前に会った時と全く同じである。場合によっては、下着も変わっていないかもしれない。それもそのはずである、彼女たちの家は既にないのだ――。
桜新町駅は地下駅である。その夜、改札の前に立ち尽くしていたさおりは、斜め上から照らす電燈の光に陰りを宿さんばかりの雰囲気を醸しながら、さとみを問い詰めた。
「どこ行ってたの」
「家を出るときに秋葉原に行くって言ったでしょ。お母さんにも伝えたはずだけど」
「じゃあそのお母さんはどこにいるか知ってる?」
「今日は仕事じゃないから、家にいるんじゃないの」
「本当に何も知らないの? だから携帯を持てって家族みんなで言ってたのに」
さおりは肩に掛けていたバッグからスマートフォンを取り出した。何も口を挟めずに姉妹喧嘩を傍観していると、
「このニュース、知らないの?」
差し出された画面を脇から覗くと、それはニュースサイトの記事であった。
『世田谷区の住宅の火事で、通報から1時間が経った現在も消防による消火活動が続いている。この住宅に住んでいた早瀬孝司さん(52)と美和子さん(50)と連絡が取れなくなっており……』
夕方、倉下のテレビ選びを待っているときに目にしたニュースの火事である。思わず「あっ」と呟いてしまった。しかし二人は僕の声などに注意を払うほど余裕はなかった。
「これって」
「このときお父さんもお母さんも家の中にいたんだよ!」
さおりは必死でこらえていた涙をあふれさせた。少しこもった声を響かせながら、さとみを責め続ける。
「私はそのときたまたまコンビニに行ってたから、火が出た原因は知らないけど、お姉ちゃんがいれば全焼しなくて済んだかもしれないんだよ?」
「全焼っていうけど、今も消火している最中なんじゃないの」
「さっき見せたのは少し前の記事なの。今はもう消火は終わってる。今は消防署の人と警察がいろいろ調べてるところ」
滴り続ける水滴が岩を割るように、さとみもついに話を噛み砕くことができたらしい。静かにうなだれて、「とりあえず家まで行く」と絞り出した。そしてこちらを振り向くと、それに合わせてさおりも僕の存在を認識した。
「あなたは……」
「秋葉原で会った倉下さんのお友達。雨が降ってるからってここまで送ってくれたの」
「竹内です」
「竹内さんですか、姉をありがとうございました。ただ、こちらは一度も雨は降っていませんし、あとは私と姉でどうにかします。今日はこんな状況ですから……本当にすみません」
「わかりました。それではここで失礼します」
何か力になりたいのは山々ではあったが、とてもできる気はしなかった。自分がいたところでかえって迷惑になるだけであることも自覚していたので、そのまま背を向けて今出てきた改札へと向かった。すると、「ごめん」と繰り返しながら泣きじゃくるさとみの顔を胸に抱えながら、さおりが呼びかけてきた。
「一週間後。一週間後の正午に、渋谷で会えますか。姉と一緒に行きます」
その約束で再会したのである。二人が痩せて見えるのは気のせいではないだろう。髪のつやも全くなく、ただ疲れを重荷のように背負って、やっとのことで立っているという様子だった。このにぎやかな雰囲気の街にはとても似合わない。僕は二人に最敬礼を捧げてから、ゆっくりと歩み寄った。