Leaf 6
「それから、一つ聞きたいことがあるんです。なぜ、さっき店を出たあと、倉下にあんな話をしていたんですか。ホテルに行こうかな、みたいな感じで」
「ああいう話をしないと、倉下さんにいじめられるんです」
「いじめられるというのは……、会社の人が言っているように、無理やりホテルに連れ込まれるということですか」
「いえ、本来の意味でのいじめです。社内で無視されたり、変ないたずらをされたり」
倉下のようなあっけらかんとした男が、早瀬の言うような陰湿ないじめに走るだろうか――。竹内の頭の中を疑問がかけめぐった。しかも、彼も竹内と同じく入社4年目である。社内でそれほどの力があるとも思えない。
「上司もいるでしょうに、そんなことができるんですか」
「もちろん、気づかれないようにするんですよ。上司からの受けがいいので、他の人がいじめのことを訴えても軽くあしらわれてしまいますし。たとえ何か上司から聞かれても、倉下さんはうまいことを言って切り抜けるんです」
「それにしたって、そういう話をしないだけでいじめられるなんて」
「そういう人なんです」
早瀬はすっかり落ち込んでしまった様子だった。一度口をつけたきりのマグカップからは、既に湯気が全く立たなくなっている。気づけば店内には二人きりになり、このテーブルの沈黙は店内の沈黙と等しかった。
雨が降り出したらしい。外を走る車が路上の水を切る音がする。通りを行き交う人もどことなく早足で過ぎ去っていく。しばらく窓の外を眺めた後で、竹内は話を変えた。
「傘、持ってますか」
ちょっと待ってください、とバッグの中を探る早瀬の、高い位置で一つに結んだ髪型は、彼女を年齢以上に幼く見せる。竹内は徐々に彼女に心を開きつつあった。
「折り畳み傘を持っているかと思ったんですが、ありませんでした」
恥ずかしそうに笑う。
「それなら貸します。僕は駅から家まで近いですし」
実際には自宅と最寄駅の片道には歩いて20分かかる。それとなく左手首を見ると、時刻は午後八時を回ったところだった。駅に着いて雨が強いようなら、雨宿りをすればよい。
「それとも、家まで送りましょうか。ここからは地下鉄ですか」
早瀬は二度小さく頷いた。身支度を整えて店を出ると、早瀬は竹内が折り畳み傘を開くのを待つようにしながら一歩身体を近づけた。地下鉄の入り口は店の隣であるが、竹内は早瀬を傘の下に入れて歩き出した。
彼にとって初めての相合傘であった。ほんの十数歩の間も、今までの人生の中で最も長い時間が過ぎたように感じられた。早瀬に傘の面積を譲ってびしょ濡れになった右肩も、全く冷たいと思わない。早瀬の息遣いから微かに香るアルコールの匂いが、やけに彼の心身を酔わせた。
駅の階段を下りながら、ようやく我に返った様子で竹内が尋ねた。
「ところで、お家はどちらなんですか」
「桜新町駅から歩いて5分くらいです」
「桜新町というと……」
名前しか知らない駅に戸惑っていると、
「じゃあ神保町で乗り換えましょう」
「はい。……ごめんなさい、新宿線は分からなくて」
ホームに降りると、間もなく電車が入ってきた。